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~新渡戸記念の~              『言葉の院外処方箋』 樋野興夫センター長


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「言葉の院外処方箋」

第333回
『心温まる おもてなし』 〜 『貴重な人生の繋がり』 〜

2025年6月5日『OCCニュースレター第29号』(画像)が送られてきた。 【<がん哲学外来>お茶の水メディカル・カフェ in OCC】(代表者:大嶋重徳先生 担当者:増田謙氏 司会:山﨑智子先生)は、 2012年5月26日スタートし、『あらゆる人々が 立場を超えて集う 交流の場』でもある。 【温かく迎い入れるスタッフの皆様の『心温まる賢明な寛容性』&『熱意と真摯なる姿』】には、ただただ感服する。

6月6日 筆者は、『病理医』としての定例の『病理組織診断』業務に赴く。『病理組織診断』とは、『顕微鏡を見て病気を診断する = 森を診て木の皮まで診る =風貌を見て、心まで読む = 丁寧な観察力の修練』である。 病理医としての経験が、【『がん哲学 = 生物学の法則 + 人間学の法則』&『がん哲学外来 = 品性のある 強靭で 高貴な心の持ち方の厳粛な訓練』】となった。

6月3日 wifeと筆者の母(樋野壽子:1923年2月20日〜2019年6月3日)の7周忌で 実家(島根県出雲大社町鵜峠:出雲大社から、8キロほど、峠を越えて美しい日本海に面した小さな村:人口30名、空き家60%)に帰郷した(画像)。

母校の鵜鷺(鵜峠+鷺浦=鵜鷺)小学校、中学校は廃校になった。 故郷は無医村であり、幼年期、熱を出しては母に背負われて、峠のトンネルを通って、隣の村(鷺浦)の診療所に行った体験が、今でも脳裏に焼き付いている。 筆者は、『人生3歳にして医者になろう』と思ったようである。 そして【『出雲弁』の筆者が、『臨床医』でなく『病理医』となった】。『人生の繋がり』を痛感する。

今回は、実家に保存されていた、筆者の小学校5年生の時の日記を再読した。 文章は『現在と同じレベル』の内容である。 筆者は、『言うこと聞かずの生徒であった』ようで、担任の先生から、毎日、日記を書くように命令され登校して、担任の先生に渡し、下校時、赤字でコメントを頂いたものである。 そのことが、今もブログが継続的に書けるようになった。 不思議である。 今回は【『不連続の連続性=人生の原点』を実感する貴重な『姉のおもてなし』】の帰郷となった。

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