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~新渡戸記念の~              『言葉の院外処方箋』 樋野興夫センター長


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「言葉の院外処方箋」

第338回
人生の道を前進させる 〜 ひき継がれて、先へと運ばれていく 〜


2025年6月30日 筆者は理事長を務める恵泉女学園(東京都世田谷区)【2021年7月1日、新渡戸稲造(1862-1933)から学んだ河井道(1877-1953)が、初代学園長である学校法人恵泉女学園の9代目理事長を拝命】に赴いた。 筆者は、この度、任期満了で理事長を退任した。『理事―>理事長』16年間、大変お世話になった。 花束を頂いた。 ただただ感謝である。

河井道は、1887年スミス女学校(現在:北星学園 女子中学高等学校)(北海道札幌市)に入学し、当時札幌農学校で教えていた新渡戸稲造と邂逅した。 1896年上京し、津田梅子(1864-1929)に学ぶ。 1898年 新渡戸稲造 夫妻に伴われて渡米し、 ブリンマー大学に入学した(HPより 画像)。 『河井道の育ての親』の箇所には、【河井道は新渡戸稲造に、プリンマー大学の入学、卒業を援護してもらってる。 その後、河井道は学校設立の為に、国際連盟事務次長(1920-1926)の新渡戸稲造に相談にジュネーブにわざわざ行った。 その時に新渡戸稲造は、『君はこれから女学校でも創立すると、その経営に苦しんで終わり、理想とする教育には手を下しえないで果てるだろう。 ほかにやる用事はたくさんにあるから、思いとどまれ』(『新渡戸博士追悼集』の河井道の文章)と言っている。 しょげて日本に帰国した河井道は、あきらめなかった。 そして丁度1928年、新渡戸稲造は 台湾在住の男性からの現在の700万円の寄贈を辞退して、台湾在住の男性に『資金繰りに困っている河合道に寄付金として送るよう』伝えた。 そして1929年恵泉女学園創立した。】とある。 不思議なタイミングを痛感する。

河井道は、創立10周年を機に、『”My Lantern”(わたしのランターン)』著した(1939年)。『よりよいゴールにむかって 人生の道を勇ましく前進させる』の文章がある。【『わたしのランターン』の終わりに『ここまで、わたしは、私のランターンをかかげてきた。 時がくると、それは別の手へとひき継がれて、さらに先へと運ばれていくであろう。 私たちの魂の『太陽』が、この世界の面から、うれいと闇の跡をひとひらも残さず追いはらうまで、このランターンが、芯を切りととのえられ、燃え続けていくように、わたしはそれのみを願っている』】と記述している。 今回、鮮明に想い出された。

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