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~新渡戸記念の~              『言葉の院外処方箋』 樋野興夫センター長


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「言葉の院外処方箋」

第416回
『幼年時代の想い出』 〜 『愛する人は 心強き人』 〜


2026年7月11日『新渡戸稲造記念センター in 新渡戸記念中野総合病院』から 第150回【お茶の水メディカル・カフェ in お茶の水クリスチャン・センター(OCC)】に赴いた。 筆者は、別室で3組の個人面談の機会が与えられた。【2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震 (東日本大震災) が発生し、当時 OCC 副理事長であった榊原寛(1941-2020)先生が、2012年に『お茶の水メディカル・カフェ』を始められた。 1933年3月3日に 三陸で地震の大災害があった。 新渡戸稲造(1862-1933)は 被災地 宮古市等沿岸部を 視察したとのことである。 その惨状を 目の当たりにした 新渡戸稲造は『Union is Power』(協調・協力こそが力なり)と 当時の青年に語ったと言われている。 新渡戸稲造没80周年記念講演会(2022年)が、『東日本大震災復興支援宮古講演会』として岩手県宮古市で開催され、筆者は『新渡戸稲造博士 と がん哲学』のタイトルで講演を依頼されたことが 鮮明に思い出された。】

早朝、芹洋子の『四季の歌』を拝聴したので、7月は夏の始まりであるので『夏を愛する人は 心強き人 岩を砕く波のような 僕の父親』を紹介した。 筆者の父【樋野廉平(1921年1月24日〜2013年5月5日)】&母【樋野壽子(1923年2月20日〜2019年6月3日)】は、【現在では人口約30名、60%の空き家の故郷】の島根県出雲市大社町鵜峠(うど)(画像)の自宅で、安らかに 92歳・96歳の天寿を全うした。 葬儀では、筆者は喪主として『天寿を全うし、地上の長い旅路を歩み、様々の責任を全うした両親には、 深い敬意を払います』と挨拶をしたのが鮮明に思い出された。『地上では、故人の遺志を受け継ぎ 天国ではカフェを開催する』のが、筆者の大きな夢である。

父は婿養子で、貨物船やタンカーの機関長であった。 母の兄達は、太平洋戦争で戦死し、末っ子の母が家を継いだ。 そして、祖父の樋野卓郎(1888-1972)から家を継いだ末娘(母)の3人の子供(誉・誠・興夫)の末っ子の長男:筆者に『家を興(おこ)す = 樋野興夫 = ひのおきお = Origin of Fire』と命名されたと、膝に抱かれて聞かされた『幼年時代の想い出』が鮮明に蘇った。 筆者は、小学生、中学生時代の夏休み、母と父の船に乗り、日本海、太平洋の船旅をしたものである。【鵜峠+鷺浦(さぎうら)=鵜鷺(うさぎ)小学校、中学校】は、既に廃校になった(画像)。 故郷は無医村であり、幼年期、熱を出しては母に背負われて、峠のトンネルを通って、隣の村(鷺浦)の診療所に行った体験が、今でも脳裏に焼き付いている。 筆者は『人生3歳にして医者になろう』(画像)と思ったようである。

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