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~新渡戸記念の~              『言葉の院外処方箋』 樋野興夫センター長


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「言葉の院外処方箋」

第369回
『いかに生きるべきかの基軸』 〜 実例と実行 〜


2025年12月6日 筆者は、自由学園リビングアカデミー(東久留米市学園町)の石川章代先生 企画の【教養講座:賢明な寛容 ~ 実例と実行 ~』に赴いた。会場は多数の参加者であった。 多数の質問も寄せられた。【内村鑑三(1861-1930)・新渡戸稲造(1862-1933)・南原繁(1889-1974)・矢内原忠雄(1893-1961)】の紹介し、特に【内村鑑三・矢内原忠雄】について語った。

【内村鑑三は、札幌農学校で新渡戸稲造と同級生であり、アメリカに留学し、帰国後、いくつかの学校で教鞭をとるが、いわゆる『不敬事件』が社会問題化し、一方、自身も病を得、教壇から去ることになる。しかし不遇をかこつ何年かの間に数多くの著作、論説を発表し、これらは教育や文学、芸術などを幅広い分野に影響を及ぼした。ちなみにこの時期に書かれた『Representative Men of Japan』(『代表的日本人』)は、新渡戸稲造の『武士道』とならぶ、世界のベストセラーになった。こののち、『萬朝報』に招かれ英文欄主筆となるなどジャーナリストとして活躍し、足尾鉱毒事件にかかわりを持ち、日露戦争に際しては非戦論を貫き、やがて『小国主義』を唱えていくなど、内村鑑三は常に平和な社会を求める言論を展開している。さらに聖書研究を目的とする月刊雑誌『聖書之研究』を創刊、多くの人々に影響を与えたことはよく知られている通りである。】

【矢内原忠雄は、第一高等学校で新渡戸稲造と出会い、内村鑑三の『聖書之研究』を読み、聖書講話を聞いて、東大ではまた新渡戸稲造の講義を聞き、このふたりの影響を深く受けている。 国際連盟事務次長就任として転出した新渡戸稲造の後任として東大経済学部教授となり、植民政策の講座を担当するが、軍国主義が台頭するなか、国の正義に反する動きを批判し、憂国の言葉が批判の的となり、東大を追われた。以後、『嘉信』を刊行し、また著作を発表して行く。 そして戦後、東大に復帰、教養学部の初代学部長に就任、やがて南原繁の後任として、東大総長に選任されるのである。】

【我々は、歴史に学ばなければならない。『いかに生きるべきかの基軸を求める時代の到来』】を予感する日々である。 

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