新渡戸記念中野総合病院の歴史
新渡戸記念中野総合病院の歴史
東京医療生活協同組合新渡戸記念中野総合病院は、故新渡戸稲造博士・故賀川豊彦氏らにより昭和7年(1932年)「東京医療利用組合」として創立された、日本で最初の組合病院です。
「東京医療利用組合設立趣意書」には「疾病に対する治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として、貧富、高下、都鄙の別なく享受せられなければならぬ」「個人としての医師の及ばない経済上の問題を解決し、更に医療上に於ても、各専門医の協力と綜合による組織的医療を行い得ること、進んで治療の根本問題であるところの組合員の保健即ち予防医学まで誠意を以て徹底的な貢献を為し得る点に於て、特色を持つものであります。」と謳われ、東京医療利用組合は十分かつ高度の医療を全ての人々が安心して受けられる医療機関を提供する事を目指したものでした。この医療制度は、日本における市民健康保険組合の最初のもので、現在の日本の健康保険制度の基になったものです。
「東京医療利用組合設立趣意書」には「疾病に対する治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として、貧富、高下、都鄙の別なく享受せられなければならぬ」「個人としての医師の及ばない経済上の問題を解決し、更に医療上に於ても、各専門医の協力と綜合による組織的医療を行い得ること、進んで治療の根本問題であるところの組合員の保健即ち予防医学まで誠意を以て徹底的な貢献を為し得る点に於て、特色を持つものであります。」と謳われ、東京医療利用組合は十分かつ高度の医療を全ての人々が安心して受けられる医療機関を提供する事を目指したものでした。この医療制度は、日本における市民健康保険組合の最初のもので、現在の日本の健康保険制度の基になったものです。
昭和40年10月に現在の病院建物「中野組合病院」が全館竣工落成されました。昭和41年総合病院として承認され、昭和44年病院名を「中野総合病院」と改名しました。昭和48年より主に東京医科歯科大学の関連病院となりました。
昭和56年中野総合病院の外来人工透析施設として「中野クリニック」を創設。平成8年には「新渡戸記念訪問看護ステーション」を創設しました。平成9年に「東京都災害拠点病院」及び「臨床研修病院」に指定されました。平成12年「東京医療別館」を落成、同館内に「中野クリニック」「新渡戸記念訪問看護ステーション」が収容されると同時に、「中野総合病院指定居宅介護支援事業所」を開設しました。
年表
昭和7年 | 「東京医療利用組合」創立 新宿に診療所を設ける |
昭和8年 | 中野に移転し、「中野組合病院」を落成 |
昭和25年 | 生協法の制定に従い、「東京医療生活協同組合」に組織変更 |
昭和40年 | 「中野組合病院」全館新築落成 |
昭和41年 | 総合病院として承認される |
昭和44年 | 「中野総合病院」に名称変更 |
昭和56年 | 「中野クリニック」を併設 |
平成8年 | 「新渡戸記念 訪問看護ステーション」を併設 |
平成9年 | 東京都災害拠点病院に指定される 臨床研修病院に指定される |
平成12年 | 「東京医療別館」を落成 「新渡戸記念中野総合病院 居宅介護支援事業所(旧中野総合病院指定居宅介護支援事業所)」を併設 |
平成19年 | 中野総合病院に療養病棟を併設する |
平成24年 | 創立80周年 |
平成27年 | 「新渡戸記念中野総合病院」に名称変更 保育室「きっずはうすMOMO」を併設 |
平成28年 | 療養病棟を廃止し、全病棟を急性期病棟とする |
平成29年 | 「2号館」を落成する 新渡戸記念中野総合病院の一般病棟入院基本料が7:1となる |
新渡戸稲造博士年表
文久2年 | 1862年 | 父 十次郎、母 勢喜の三男として盛岡に生まれる。 幼名稲之助。 |
明治6年 | 1873年 | 東京外国語学校に入学。 |
明治8年 | 1875年 | 東京英語学校に入学。 |
明治10年 | 1877年 | 札幌農学校に入学(第2期生)。 |
明治14年 | 1881年 | 札幌農学校卒業 開拓使御用掛勤務。 |
明治16年 | 1883年 | 東京大学選科生となる。 |
明治17年 | 1884年 | 東京大学を中途退学。 アメリカ ジョンズ・ホプキンス大学入学。 |
明治20年 | 1887年 | ドイツ・ボン大学で農政・農業経済学を研究。 |
明治21年 | 1888年 | ドイツ・ベルリン大学に転校。 |
明治22年 | 1889年 | ドイツ・ハレ大学に転校。 |
明治23年 | 1890年 | アメリカ ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号を授与。 |
明治24年 | 1891年 | メリー・エルキントン(日本名:新渡戸万里子)と結婚、日本に帰国。 札幌農学校教授となる。 |
明治32年 | 1899年 | 農学博士の称号を得る。 |
明治33年 | 1900年 | 「武士道」(BUSHIDO, THE SOUL of JAPAN)を出版。 |
明治34年 | 1901年 | 台湾総督府民政部殖産局長心得に就任。 |
明治35年 | 1902年 | 台湾総督府糖務局局長に就任。 |
明治36年 | 1903年 | 京都帝国大学法科大学教授となる。 |
明治39年 | 1906年 | 法学博士の称号を得る。 第一高等学校校長に就任。 東京帝国大学農学部教授を兼任。 |
大正7年 | 1918年 | 東京女子大学初代学長に就任。 |
大正9年 | 1920年 | 国際連盟事務次長に就任。 |
大正15年 | 1926年 | 国際連盟事務次長を退任。 貴族院議員に勅撰される。 |
昭和3年 | 1928年 | 東京女子経済専門学校の初代校長に就任。 |
昭和4年 | 1929年 | 太平洋問題調査会理事長に就任。 |
昭和7年 | 1932年 | 「東京医療利用組合」初代組合長に就任。 |
昭和8年 | 1933年 | カナダ・バンフでの第5回太平洋会議に出席。 カナダ・ビクトリア市ロイヤルジュビリー病院にて客死。 |